河野 太郎 金工展「空白がまわる」
2026/2/18wed - 25tue
at 金沢エムザ 5F 美術サロン​​​​​​​
 図は、私が青銅作品を制作する際の工程にまつわる物質などの循環を、かなり簡素にまとめたものです(真土式蝋型鋳造の場合)。元素や現象、人の存在や細かい道具などは省略していたりと、ひどく大雑把な図ではありますが、ここで示したい内容は「全ての矢印が不可逆である」ということ、また、熱力学の法則が示すように「全ての段階で必ず何らかの廃棄物や熱が生じる」ということです。要素として元の状態に近づけるためには、また別のエネルギーや物質を要することになり、その際にもやはり廃棄物や熱を生じます。
 「元の状態」と「限りなく近い別のもの」との間には、あまりにも大きく虚ろな隔たりが存在しています。その空白を埋めることは、いかなる手段を用いても叶わないでしょう。金属を作品に変える行為自体も同じく、あらゆる犠牲の上に立ち、そこに双方向性は存在し得ません。何かをつくり発表することは、常に覚悟と責任を伴いつつも身勝手で無責任な行為でもあります。同時に、日々が一体何によって構成されているのかを知るための行為でもあると私は考えています。
 元の状態に戻ろうとする渇望は、成長・拡大や安定・維持と同じ場所に在ります。ただ視点が違うだけです。共通している点があるとするならば、何かを犠牲にすることを厭わないという点です。生活のため、人のため、国のため、信仰のため、感情のため……様々な理由をつけて、森を切り開き、土地を奪い、ガス室をつくり、種を減らし、言葉を武器に変え、心を解体し、今がつくられました。結果として残ったものは、一瞬の内に消えるよろこびと底のない虚しさです。その虚しさを隠すためにまた繰り返し、表層だけが変化し続けています。
 進む・戻る・留まる、どの方向を望もうとも根幹にある空白が埋まることはありません。それでも繰り返し続け、痕跡は決して消えることは無く、癒えることのない眼差しとして残り続けます。過去に起きた様々な事柄が、かたちや大きさを変えながら日常のあらゆる場面に根付いています。
 「日常」とは、何の問題も無い平穏な日々のこと、そして、あらゆる生命や尊厳を脅かしながらも容赦なく過ぎていく日々のことです。
 鋳金の工程の中で、熔けた金属が鋳型の隅々まで行き渡ることを「湯がまわる」と表現します(「湯」とは熔けた金属のこと)。湯をまわすため、つまり作品部分に滞りなく金属を流すために付ける「湯口(湯道)」は、その名の通り金属を流すための口や道となる部分で、鋳金技法において最も重要なものであり、「金属を流す」という行為をこの上なく体現している部分でもあります。しかし、「作品」と成るために跡形もなく消してしまう部分でもあります。「作品」と「行為」の間にはどこか歪な空白が在るように感じてなりません。生活と制作の繰り返しの中で、空白はまわり続けます。
 〈誰もが割当てられた義務を有していた。誰もが何らかの一寸した方法で残忍な行いをして、それが合体して大きな悲惨を生み出したのに貢献していた。そしてこの悲惨さが、(中略)日々の生存の場を造っていたのだ。〉※
 自分の今居る場所やしている些細な行いが、かつての悲惨の再現に加担していないと、果たして証明出来るのでしょうか。現在を都合の良い比較によって肯定していくことが、善悪や大小はどうあれ人が人として生きていく手段のひとつです。欲望や葛藤の循環と矛盾、その物語の外側を見つめなければならないと考えています。
 便宜上つくったものを「作品」と呼んでいますが、本来はただ金属に人の手を加わえたものでしかありません。しかし、制作という行為の集積もまた不可逆だと考えます。人が人として生きるための空白。金属が求めるかたちに近づくための空白。埋めようとせず、空白のまま持ち続けることは出来ないか。その過程に現れる矛盾と暮らすことは出来ないか。新作のうち数点、そして本展示名でもある「空白がまわる」には、そんな想いを込めました。


「Lord Russell of Liverpool, The Scourge of the swastika: A Short History of Nazi War Crimes (1954)」
V.E.フランクル著「夜と霧—ドイツ強制収容所の体験記録(1961)」みすず書房/霜山徳爾(訳) から引用

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