「森」をテーマに制作しています。技法には、型に熔けた金属を流し込む「鋳金」を用いています。


【1/作品への想い】

 「鋳金技法で森をつくること」は、常に大きな違和感と矛盾を孕んでいます。金属文明発展のため、多くの森が犠牲となってきた歴史的事実があるからです。それ故か、森と接する時にはいつも “何物にも代えがたい安らぎ” と “どうしようもない恐怖” を同時に感じます。それはまるで、正・負、善・悪の両側面をもつ過去や証拠が否応なしに突き付けられた途端、未来への手がかりが小さく確かな光として差し込んで来たような感覚です。これは、物事が「確かに存在している」と感じる瞬間のものに近いと私は考えています。
 どれだけ文明が発展しようとも、私を含め多くの人々が森に足を運びます。それは、都市や人工物、データ、繋がりっ放しの関係に溺れた朧げな意識の日々に、「森」の持つ両側面の感情が上記のような事柄を生み出すからではないでしょうか。

 私のつくる「森」の発想源は様々です。雄大な大自然や観光名所から着想を得る時もありますが、むしろ日常の中から得る事の方が多いです。郊外にひっそりと佇む小さな森、知らない誰かの家の生垣、廃屋を埋め尽くす緑、鎮守の杜…… 最初に「森」をつくり始めたきっかけも、生家の近くに在る何の謂れもない“ただの森”でした(上写真/2010年撮影)。また、森とは直接関係のないような、雲や街、人の心情から発想することもあります。これらの発想源は、共通して「存在の強さ」とでも呼ぶべきものを持っていると感じます。これらに触れていない時は、今ここに生きていることすら酷く不安定で曖昧なもののように感じてしまいます。

 「森」をつくり続けているのは、いくら口上を並べようとも私自身のため以外に他なりません。自分自身とその周囲の物事の存在を確かめるように「森」をつくり、それが人々の中に眠る「確かに存在している」という事柄を呼び覚ますものとなれたのなら、この上ない幸福です。



【2/技法と素材について】

 鋳金技法には、作品の形状や特性に応じた多種多様の原型・鋳型制作技術があります。私はその中でも、蝋を金属に置き換える「蝋型鋳造(ロストワックス)」を用いています(参考:下写真)。
1.蝋原型に湯道(金属が流れる道)が付いた状態/2.真土による鋳型の状態/3.窯に入れ焼成を行う/4.鋳造の様子/5.鋳型から作品を取り出した状態
 蝋型鋳造の特徴は、(基本的には)一つの原型から一つの鋳造品しか得る事が出来ないということです。原型の蝋が、焼成の段階で溶けて鋳型から流れ出てしまうからです(これによって生まれた空隙に金属を流し込む)。これは大量生産を軸とする工業の場では、コストの観点から欠点として捉えられがちですが、私にとってはむしろ最大の魅力です。コピー&ペーストで容易に同じ質を得ることが可能な現代において、物質の唯一性や実在性を実感できる貴重な体験だからです。
 また、脆く柔らかな蝋が一度かたちを失い、堅牢な金属として生まれ変わる様からは、風に揺れ動く「森」の一瞬の姿が永遠性を持つような神秘的魅力を感じます。

 蝋型鋳造と一口に言っても、鋳型製作法によって様々な分類がされています。私はそれらのうち「真土(まね)型」という鋳型製作法を主に用いています。簡単に言えば、鋳型を自然素材(砂、粘土、水、藁など)でつくる伝統技術で、その起源は紀元前まで遡ります。原始的な技術であるからこそ、成功も失敗も全てかたちとなって現れるような技術です。

 最終工程の「着色」では、塗料を用いず青銅の中にある色彩(錆、緑青)を引き出すような方法を採っています。その錆の色は「森」のもつ色彩と共鳴し、部分的に研ぎ出すことで生まれる光沢は、陽に照らされ煌めく葉や樹幹のような美しさを持っています。

 私は鋳金技法と接している時、どの工程下でも自然の恩恵を強く感じつつ、その圧倒的な力に畏怖の念を覚えます。これは、上に記した「森」から得る両側面の感情と繋がる事柄だと考えています。技法を自在に操ろうとすれば残酷なまでに裏切られ、各素材の聲をきくように向き合えば、多くの助けを得ることができます。自然に意思は存在せず、おのずからある状態が空気のようにただ浮遊していて、我々はその中で勝手にもがいている。人と自然の在り方や関係性、そしてそれらの存在を如実に感じられる技法だと日々想いながら制作しています。
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