ここに記すのは、私の妻であり制作のパートナーでもある濱口 佳純に関する内容です。彼女は、2025年に乳がんを罹患し、約9ヶ月間の闘病生活(手術・抗がん剤治療)を余儀なくされました。当時の日記やメモを元に、妻の承諾を得た上でその日々のことをまとめました。治療の山は越えましたが、まだ10年間のホルモン治療が残っている現状での記録です。
あくまで「私目線の話」なので、当時の私自身の葛藤を軸に記しています。そのため、自己憐憫のようにしか感じられない部分も多いですが、現在同じような状況にある当事者や関係者、または関連する不安を抱えている人の、ささやかな支えになれたならば幸いです。
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2025年6月のある日、妻の様子にどこか違和感を覚えた。注意深く問いてみると「まぁたぶん大丈夫だと思うけど…」と話し出してくれた。
「左胸の付け根あたりに“しこり”があるような気がする。大丈夫だとは思うけど、病院に行ってくる。」
血の気が引いたと同時に「まさかそんなはずはない。あったとしても良性のものだろう。流石にありえない、大丈夫。」と互いに言い聞かせあった。特に心身の不調があったわけでも、がん健診を受けたからというわけでもない。年齢(30歳)的にも健康状態的にも、問題の無い可能性の方が遥かに高かった。
まず1回目の検査の結果、精密検査の対象になった。あらゆる情報源や経験者、医療従事者の知り合いの言葉、それらの中から少しでも楽観的に捉えられるもののみに縋った。つまり、“精密検査を受けた人のうち、実際に乳がんと診断される確率は5%未満”というような情報。そのようなものしか受け入れられなかった。大丈夫、まさかそんなはずはない。有り得ない、大丈夫。
数回に渡る検査を行なった結果、乳がんだという診断が下った。診断される直前まで、何度も何度も「確率は低い」というような文言に縋った。しかし、確率がどれだけ低かろうが、決して「有り得無い」ではない。そんな当たり前なことに打ちのめされた。
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7月中頃に、おおまかではあるがより詳細な検査結果が伝えられた。内容は「他の臓器への転移などは無く命に関わるような重篤な状態ではないが、乳房片側の全摘出は必須」というものだった。
生きていてくれる、そのことにとても安心出来た。しかし、治療に必要とわかっていても、身体の一部を失う。その決定事項とどう向き合えばいいのか。知り合いや親戚に同じような経験をした人や医療従事者もいたので方々訪ねまわった。結論は出ず、とにかく手術に備えるしかなかった。
数日が経ち、少しずつだが前向きに捉えることも出来るようになっていた。今見つかって良かった、見つからないまま放置して手遅れにならなくてよかった、と。とにかく早くがんを取ってしまって、これからの人生は後悔なく生きていこう。これをきっかけにして、食生活や生活サイクルも見直し、心身共に健やかに保っていこう、と。
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同時進行で別の検査も行い、それも陽性という結果だった。
その検査とは、アメリカの専門機関による遺伝子の検査で、「BRCA2遺伝子に病的変異あり」という検査結果だった。病院で頂いた資料や担当医の説明を要約すると、これは遺伝性乳がん(HBOC…遺伝性乳がん卵巣がん症候群)と呼ばれるもので、200〜500人に1人の確率で該当し、これに該当する人は乳がん・卵巣がん・膵がんに罹患する確率が著しく高くなる、というものだった。乳がんを罹患する確率が50歳までに17〜35%、70歳までに38〜84%(一般的には50歳までに2.1%、70歳までに7.6%とされている)、つまり50歳までだと最低約8倍/最大約17倍ほど発症リスクが上昇するものだった。
がんは様々な要因により発生すると言われていて、「遺伝要因」「環境要因(食生活やストレスなど)」「時間(加齢)」「偶然(ウィルス・細菌感染)」などがある。遺伝要因、つまり生まれ持った「遺伝子の特徴」によってがんになりやすくなる。それは一生変わらない。例えば「水が溢れたらがんになるコップ」というものがあるとして、喫煙や過度な飲酒、偏った食生活やストレスなどによって少しずつ水が溜まっていく。通常であれば、空の状態からのスタートなので、いくら不摂生をしてもがんにならない人もいる(もちろん他の病気にはなるだろうが)。妻のような遺伝子の特徴を待っている人は、コップには既にある程度水が溜まっていて、その初期水位は何があっても変化しない。つまり他の人より溢れやすい、そんな状態だと言われた。
ただ、遺伝とは言っても、親から子に受け継がれる確率は50%で、血縁者にこの特徴を持った人がいても自分は持っていないということもある(逆も然り)。注意喚起も含めて、なるべく誤解の無いように御親族にもこのことを伝えた。私達のせいだ、申し訳ないと何度も仰っていた。誰も悪くないし、仕方のないこと、もちろん御親族を責めるような気は我々に一度も起きなかった。それでも、特に御両親はどうしても罪悪感を抱えてしまう。それが心苦しかった。
ただ、遺伝とは言っても、親から子に受け継がれる確率は50%で、血縁者にこの特徴を持った人がいても自分は持っていないということもある(逆も然り)。注意喚起も含めて、なるべく誤解の無いように御親族にもこのことを伝えた。私達のせいだ、申し訳ないと何度も仰っていた。誰も悪くないし、仕方のないこと、もちろん御親族を責めるような気は我々に一度も起きなかった。それでも、特に御両親はどうしても罪悪感を抱えてしまう。それが心苦しかった。
HBOCに該当した人には、別の選択肢が与えられる。予防的切除、つまり健康な側の乳房や卵巣を摘出するというものだ。2014年に女優のアンジェリーナ・ジョリーさんが同じタイプの癌に罹患し、予防治療として両乳房と卵巣を摘出したことで話題になったので、知っている人もいるかもしれない。彼女の場合は「BRCA"1"」に変異があったため、それが最善の手段だったそうだ。「BRCA"1"」の変異は「BRCA"2"」の変異に比べ、より乳癌などの罹患率が高い。
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妻は、遺伝子検査を受けると決めた時点で、陽性だった場合の選択は決めていた。予防的乳房切除、つまり両乳房の全摘出、そして乳房の再建(人工物や身体組織により胸の膨らみをつくること)はしない。それが妻の決断だった。これにより、今後の乳がん発症リスクを約90%抑えることが出来る。卵巣については、取ることによるリスクの方が今は怖いのでそのままにしておくことになった。
この選択をしなかった場合の心理的・経済的負担の方が大きく感じるから、という現実的な考えの元の決断であり、決して自暴自棄になったわけではない。担当医から見てもベストな選択とのことだった(もちろん強要・あるいは選択を促すようなことは言われていない。詳細な内容を聞く前の段階で決意は固かった)。
「やっぱり今回は片側だけにしておいた方が……」という私の言葉に対し、妻ははじめて怒りを露わにした。「決断が揺らぐからやめて。“また止まってしまうかもしれない”とずっと不安に生きる方が嫌。」と。決断の裏にある覚悟や不安の重さは、はかり知れ無いものだと感じた。同時に、私は未だその葛藤を想像出来ていなかったということも痛感した。妻が女性で私が男性だから、そんな理由だけではない。1人の人間として健やかに生きるために自分の一部を失う、その決断と意志に畏敬の念のようなものを抱かずにはいられなかった。
8月中頃、ついに手術の日を迎えた。手術自体は事故もなく無事に完了した。しかし、リンパ節への転移が見つかったことも伝えられた(リンパ節へ転移しているかどうかは手術中に検査しないと分からない)。これは、言い換えると「抗がん剤治療が必要になる可能性が高い」ということでもあった。これ以上はもうやめてくれ、もう十分悩んで苦しんだじゃないか。そんな想いだけで頭が一杯だった。
手術後、病室に入ることを許された。妻は苦しそうに泣いていた。それが手術による痛みのせいなのか、喪失感のせいなのかは分からなかった。妻の御両親も泣いていた。私はただ、妻の手を握り、凡庸な労いの言葉をかけることしか出来なかった。
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両胸に血が溜まらないように管が通され、入院生活が始まった。計10日間の入院だった。幸い、病室の環境は良く、眺めの良い部屋での療養となった。感染予防のため、面会時間は制限された。
私は家に帰り、眠る気にもなれないので、不安や心配を、疲労が上回るまで制作をしていた。
妻が入院中のことはよく覚えていない。日記をつける気にもなれなかった。ただただ、生活のルーティンに沿って動いていただけの日々だった。眠ることと食べることが苦痛だった。出かける気にもなれなかったので、お見舞いと食材の買い出し以外はほとんど家に居た。
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次に記すのは、ここまでの期間で私の中で起きた葛藤について。
がんと分かるまで、そしてがんのタイプや手術内容の詳細が分かるまでの数週間、これまで味わったことのない強烈な不安に襲われた。もう残りわずかしか共に暮らせないかもしれない、そんなことまで過った。今まで大事にしてきたもの全てがどうでもよくなるような日々だった。それでも生活は続くことすら、ひどく残酷なものに感じた。なぜこうなる前に気付けなかったのか。がんの原因になるような、彼女自身のこれまでの経験や出来事はいくつか思い当たった。なぜその時々でもっと強く止めることが出来なかったのか、無理矢理にでも休むよう促せられなかったのか。今考えてもどうしようもないことばかりが巡った。
おびえているだけの私はさておき、妻自身は一体どのような想いを抱えていたのか。想像し、寄り添い、言葉を交わし、受け容れることまではかろうじて出来たとしても、「妻本人に代わること」は決して出来ない。そんな当然でしかない事柄に、言い表せられようもない程の無力感を覚えた。
作家業をスタートしてから約10年が経った今、はじめて「つくりたくない」と感じた。「つくれない」と感じた瞬間は学生の頃から今までで何度もあったが、「つくりたくない」ははじめての感覚だった。
展示の予定がいくつか決まっていたが、全く手につかない。無理矢理手を動かそうとしても、動悸がして手を止めざるを得なくなる。それでも〆切は迫るし、展示・販売を乗り越えなければ生活もサポートも満足に出来なくなってしまう。決まっている展示は全てキャンセルし、作家業も辞めて別の仕事を探そうとすら考えた。そうすべきだという確信もあった(後に詳しく記すが、展示自体を忌避していたわけではない)。
しかし、日雇いのバイトを探しては、今の自分の年齢や出来ることの少なさに絶望した。また、日中家を空けてしまっては、緊急性のある事態への助けになれない。助成金や各種制度の情報、果ては消費者金融のサイトなどを開いては閉じを繰り返し、作品をつくるしかないと言い聞かせて制作を続けた。
気持ちを多少なりとも和らげられたとしても、妻の病とこれからの苦しみを代わることが出来ない。残ったのは自分への失望と、病に対する怒りだけだった。そのどちらも、何の役にも立たないものだった。そんなことを考える暇があるならサポートに徹するべきだ。それでも制作を続けなければ生活とサポートが……そんな渦の中にいた。もはやそうした葛藤自体にも、作品制作にも意味を感じなくなっていた。
もしかしたら、あと残り短い時間しか妻と話せないかもしれないという焦り、それを否定したいという願いが絡み合ったままだった。私が最も忌み嫌う言葉である「どうすればいいか分からない」が、口に出る寸前だった。逆に、口に出してしまえばすべてが崩れてしまうような恐怖もあった。
こうして綴っている今も感じていることだが、妻の身に起きたことを元に何かを表現する、という事がひどく不気味に感じた。人の、それも最も大切な人の不幸を自分の糧にしてしまうような、そんな不気味さと気色の悪さがあった。しかし、自分にとっても大きな出来事であることも事実なのだから、どうやっても作品に入ってしまう。そのことがとても虚しかった。
どのような想いがあろうとも、変わってしまうものと変えられないものがある。数ヶ月の葛藤を経て、その虚しさを前提に考えられるようにはなっていった。その時につくっていたのが「空白がまわる」だった。乗り越えたわけではない。だから必然的に、「作品全体には手を加えない/加えられない」ことが前提になった。
この頃の記憶は朧げで、身体が脳を介さずに動いていたような感覚だけを覚えている。現実と自分との間に隔たりを感じていた。この間に、手術・入院・抗がん剤治療が行われた(ここの詳細も後に記す)。
曖昧な日々の中、気づけば「空白がまわる」のいくつかの鋳造が完了していた。それらを並べたとき、その時の自分には何が良いのか全く分からなかった。意味のないものが、意味のないまま出来てしまった。素材に対する申し訳なさすらあった。実際、いくつかは溶かして別の作品にしてしまった。
それでも残した数点を、とにかく〆切に間に合わせるために仕上げた。決して手は抜いていないが、それでも何が良いのか分からなかった。綺麗に整った場所で撮影することはどこか間違っているように感じ、いつもの作業場で撮ったものをDM画像に使った。
DMを入稿した時、ようやく「これしか方法は無かったのかもしれない」と思えた。過去を肯定したわけでも、ましてや妻の病を前向きに捉えられたわけでもない。「これでよかった」など、全く思えない。すべて消えないまま、空白は空白のまま残って、表層だけ変化しつつまわっていく。展示が成功してもしなくても、妻の心身に刻まれた痕は消えない。これからの不安も消えない。
これからの「日常」は、何の問題も無い平穏な日々でもあり、あらゆる生命と尊厳を脅かしながらも容赦なく続いていく日々でもある。それは、がんが発覚する以前から分かっていた内容のはずだった。
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退院の日が来た。
昼前に帰宅したので、とりあえず近くのチェーン店で食事をとることにした。大袈裟でなく、今までで1番「美味しい」と感じた。妻と共に食事が出来ること、そのかけがえのなさを痛感した。もちろん、今までも仕事などの関係で数日間どちらかが家を離れることはよくあったのだが、何かが決定的に違った。味としての美味しさではない。安心・安堵の感情が腹の奥から溢れ出すような感覚だった。無事に帰ってきてくれた、そのことをただひたすらに喜んだ。
翌日の夜、はじめて手術した場所を見せてもらった。「引かないでね」と冗談めかしく言いながら。
両胸に一本ずつ、片方は脇にまで至る手術痕を直視し、涙が溢れてしまった。妻ががんだと分かってから今まで、一度も涙は出なかった。泣いてどうにかなるならいくらでも泣く、今は泣いてる場合じゃないだろうと、自己洗脳のように言い聞かせていた。しかしその時だけは、一体どれほどの恐怖や不安、葛藤や後悔で日々を過ごしていたのだろう、どういう想いを抱えながらこれからを生きていくのだろう、様々な想像が頭の中を駆け回って、行き場を無くして溢れてしまった。その夜は二人で遅くまで泣き続けた。
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手術中に採取した組織の結果が分かるまでの約1ヶ月、自宅でのリハビリが始まった。最初の1週間は、腕が上がらない、伸ばせない、常に痛い、そんな状態のようだった。リンパ節郭清を受けた人は「リンパ浮腫」のリスクが高くなる。簡単に言えば、手術した側のリンパ液の流れが滞り、腕が異常にむくむ、感染症にかかりやすくなるなど様々な変化が起こるというものだ。そして、一度発症すると治り難く、今後の生活に支障が出てしまう。予防のために、蚊などによる虫刺されを含めたあらゆるケガへの対策を行う必要がある。また、なるべく体重を増やしてはいけないという条件もある。
それまで以上に食事や生活リズムに注意を払った。しかし一向に左腕の具合は良くならない。もしかして一生このままなのか、それでも働かなければならないのか、そして以前のように鋳金作品をつくれる日はもう来ないんじゃないか。そんな不安が妻の言葉の端々に見られた。
幸い、この不安はすぐに払拭された。リハビリ専門医による指導のおかげで、驚くほどの回復を見せた。ひとまず、痛みはまだ少し残るものの過剰な動きさえしなければ大丈夫、という状態まで回復した。
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数日後、検査結果が分かった。がんは3.5cmほどまでに成長していた。発見当初は約2cmほどだったが、年齢が若いため進行が早かったそうだ。ステージは「Ⅱ B」、「ホルモン感受性あり」「HER2陰性」という結果だった。背筋が凍る想いだった。あと数ヶ月、もしかしたら数日、発覚が遅かったらどうなっていたのか。
また、リンパ節への転移があるか否かの検査結果も分かり、内容は「リンパ節への転移はあったが、抗がん剤治療等は不要かもしれない。」というものだった。がん細胞が他の臓器へ転移する際、最初に辿り着く場所(センチネルリンパ節)の内、1箇所のみに転移があったそうだ。追加の検査を行うことになった。この検査は「オンコタイプDX」というもので、がんが再発するリスクを数値で示すものだった。
結果、「抗がん剤治療が必要」という数値が出てしまった。また、抗がん剤の終了後に、投薬によるホルモン治療(ノルバデックス/タモキシフェン)を10年間、遺伝子型のがんに有効な投薬(リムパーザ)を1年間行うことになった。これらの期間は妊娠・出産に対するリスクが高まるため、妊孕治療・温存療法(所謂、卵子凍結)の説明も受けた。
このあたりのことももうあまり思い出せない。毎回の病院へ着くまでの道中は「せめて」「きっと」という期待や希望にすがり、結果的に打ち砕かれるという繰り返しだった。「なぜ」という事実しか残らなかった。今後のことについて夜遅くまで話し合ったり方々訪ね回るなどして、二人にとっての最善を模索した。
同時に、妻の中で「死んでしまうわけではない」という本来は希望であったはずの内容が、「まだ耐えなければならない」という絶望に変わりつつあるのも感じた。「元気に生活をしていく」という当たり前なことすら、この時の妻にとってはプレッシャーでしかなかった。乳がんは他のがんと比べ、(がんのステージにもよるが)治療後の日常生活に支障が出ることが少なく、見た目にも現れにくい。手術痕はあるものの、生活の中で他者に気づかれることはまず無い。そのことは確かに救いではある。抗がん剤による脱毛も、ウィッグで隠すことが出来る。しかしそれは「大したことではない」「楽に治せるもの」と誤解されやすい内容でもある。
がんで大切な人を失った経験のある人や、重篤な状態で苦しんでいた人にこれまで何人も出会ってきたので、こんなことを言葉にするのは心苦しい。まして、かわいそうな人として扱って欲しいわけでも決してない。それでも、「問題なく、健康な人と同じ条件で、生きて働くことが出来る」という事柄は、必ずしも絶対的な救いにはならないということを知った。「出来る」は「そうしなければならない」と繋がっている。直ちに命に関わる状態だけが「深刻」だというわけではない。そのことを忘れないために記しておくことにした。
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10月から約5ヶ月間に渡る抗がん剤治療が始まった。最初の点滴/EC療法が2週間おきに4回、それが終われば次の点滴/アブラキサンが3週間おきに4回、段階的に行われた。副作用による種々の苦しさは、点滴後3〜7日間続き、その後はある程度は動けるようになるというものだった。EC療法による副作用の中で、妻が特に苦しんだのは食欲不振や吐き気と便秘、アブラキサンでは筋肉痛や神経痛だった。苦しくて眠れないこともあった。ここでも「代わることが出来ない」という現実を突きつけられた。生活のサポートをしながら、精神面のケアをすることに徹した。サポート疲れのようなものは感じなかった。サポートの足りなさや力不足を痛感することの方が多かったからだ。むしろ、妻を放って制作や仕事に集中することの方が、生活のためとは言え苦痛だった。全てはこれからのために、治療完了後の生活のためにも、と言い訳のように呟きながら制作を行う日々だった。
不幸中の幸い、という言葉を使うには抵抗があるが、当面の金銭面の心配はひとまずあまり無かった(あくまで“当面の、ひとまず”に限った話ではあるが)。妻は、家系的に「いつかはがんになるだろうから」と、種々の保険に加入していたからだ。我々の両親も健在で、それぞれ遠方在住ではあるが、そこから出来る最大限の様々なサポートをして頂けた。妻の親御さんは、熊本から石川まで何度も駆けつけてくれた。すでにいくつかの仕事の御依頼も頂けていて、ちょうどこの頃が納品のタイミングでもあった。
「制作が苦痛」と書いたが御依頼品に関しては別で、妻にとっても私にとっても、御依頼頂いた方々にはもう感謝しかなかった。展示のお誘いも同じで、非常に有難く感じていた。矛盾しているようだが、作品制作に対する後ろめたさと、展示が出来るよろこびは別の場所にあった。「結果を残さなければ」「期待に応えなければ」というプレッシャーは、「ここで辞めるわけにはいかない」「私が倒れるわけにはいかない」という心の支えと生活のバランサーにもなっていた。言うなれば、太宰治の「トカトントン」の“私”が抱える虚無感に近いものもあり、同じく太宰治の「葉」にある“夏まで生きていようと思った。”という一節に似た想いが、私の中で共存している状態だった。
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最初の点滴から1ヶ月が経った頃、脱毛が始まった。軽く手で掴んだだけで髪の毛が抜け、風呂場が毛にまみれる。その光景は妻しか知らない。お風呂に入る度、手術痕と大量に抜けた毛を目にすることになる。その辛さは当人にしか理解し得ない。私など、排水溝に溜まった毛束を目撃しただけだ。憐れみ慰めることすら、もはや暴力なのではと感じた。妻は「流石にしんどいから」と、バリカンで髪の毛を全て剃る決断をした。自分にやらせて欲しいと願い出て、私の手で妻の髪の毛を剃ぎ落とした。
丸坊主になった妻の姿を見た時、「かわいそう」と思ってしまうのではないかという不安があった。結果、それは杞憂だった。髪の毛があろうが無かろうが、妻の人としての本質は変わらなかったからだ。妻自身、(私に気を遣った強がりかもしれないが)「案外似合うね!」と笑っていた。とは言え、全身の毛が無いということは、様々な細菌感染のリスクが高まるということだ。安心は出来ないし、喪失感は残り続ける。
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抗がん剤治療中の妻は、副作用により数日寝込んだ後、動けるようになったらスケッチや作品制作をして、散歩を日課にした。無理なく、病以外のストレスを極力無くす生活を心がけていた。その甲斐あって順調に治療は進み、予定通り2月末で全ての抗がん剤治療は完了した。
大きな山は越えたが、まだホルモン治療が残っている。それも10年間。再発のリスクも0になったわけではない。妻の心身の傷は消えることはなく、これからの不安も続く。保険が効くとは言え、特にリムパーザは高額な薬で、追い打ちをかけるように高額医療費制度の自己負担額底上げが決まってしまった。結果良ければ全て良しとは、とてもじゃないが思えない。それでも共に生きられる。これだけで十分すぎる幸福だと感じている。
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私の個展「空白がまわる」は、最後の抗がん剤治療の前日に終了した。来てくださった方々のおかげもあり、私自身も以前に比べかなり健全な思考になれたように思う。当時は、心配してくれた人からの「大丈夫だ」という言葉すら忌避してしまっていたが、今は素直に受け止めることが出来る。また、以前に増して前向きにサポートに励むことが出来るようにもなった。しかし、これまでの事が無かったことになるわけでも、乗り越えたわけでもなく、虚しさは依然として残り続けている。ただ、それは決して悪いものではないと考えられるようになった。虚しさに対する捉え方が、「乗り越えるべきもの」から「消せないから仕方なく付き合っていくしかないもの」に変わり、「常に居てくれるもの」へと変わった。希望でも絶望でもない、繰り返さないため・忘れないための道標のようなものだ。
がんが発覚する以前に、妻と共に立ち上げた工房に「雨に夜灯り」と二人で話し合い名付けた。私たち自身が輝くのではなく、暗がりの中で光を受け煌めく水面のように道を示す存在をつくっていきたい、という願いを込めた名だった。これは、ある種の諦念も混ざった内容のものではあったのだが、この頃から無意識に「虚しさを前提にした道標」をつくろうとしていたことに少し驚いた。
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以上が、約9ヶ月間の日々のことです。かなりプライベートな内容も含まれるため、意図的に省いた内容やここでは書けない内容もあります。あまりにショックが大きく、記憶から抜け落ちてしまったものもあると思います。つまり、ここに書いたことがこの9ヶ月間の「すべて」ではありません。それでも、(冒頭の繰り返しになりますが)現在同じような状況にある人や関係者、または関連する不安を抱えている人の、ささやかな支えになれれば幸いです。ただ、ここに書かれた内容は、あくまで「妻の場合」の話です。少しでも不安要素を抱えている人は、ここに書いた中の“前向き・楽観的に捉えられること”だけを抽出して鵜呑みにせず、直ちに専門機関へ相談・検診をしに行って欲しいとも願っています。